リスクマネジメント リスク分散 成功事例

「特集」阪神大震災 目次
阪神大震災で被災した神戸新聞社資料室 

“リスク分散”完了直後のマイク□フィルム

『月刊IM』'95年5月号掲載
筆者
神戸新聞社情報科学研究所 研究調査部長
松本 誠 (まつもと まこと)

1. 新聞会館の機能壊滅、本社ビル放棄 5. マイクロフィルム整備計画の推進
2. ビル取り壊し決定、保存資料ピンチ 6. リスク分散管理とスムーズな出版業務
3. 災害対策完了直後のマイクロフィルム 7. 被災フィルムの損傷と保管設備の改善
4. 立ち遅れのマイクロ化、一挙整備へ


ケース・スタディ
阪神大震災で被災した神戸新聞社資料室
“リスク分散”完了直後のマイクロフィルム

神戸新聞社情報科学研究所 研究調査部長
松本 誠 (まつもと まこと)


 1995年1月17日午前5時46分。 地底から突き上げるような烈震が淡路・神戸・阪神間一帯を引き裂いた。マグニチュード7.2、震度7。日本で初めて、近代的な大都市を襲った直下型地震。兵庫県南部地震は、死者・行方不明5,500人に達する戦後最大の犠牲者を出し、きらびやかな都市を一瞬のうちに廃墟のまちに変えた。

都心の中高層ビルがいたるところで崩れ、亀裂が入り、次々に取り壊される順番を待つ。阪神大震災は、近代的な大都市のシステムや都市づくりのあり方が根底から問いなおされる、文字通り 「戦後50年」 のターニングポイントになった。



1. 新聞会館の機能壊滅、本社ビル放棄


震災激甚地区のど真ん中に位置した神戸新聞社も、もろに被災した。JR三ノ宮駅前に建つ神戸新聞会館 (地下3階、地上9階建て) は、戦後の三宮復興のシンボルとして登場し、報道の拠点のみならず文化・芸術、暮らし、産業など幅広い地域振興の拠点として40年近く、神戸の玄関口のシンボル的ビルとして多くの人々に親しまれてきた。

そのビルも、激しい揺さぶりの中で柱や床に亀裂が入り、窓ガラスのすべてが吹き飛んだ。地下にあった印刷工場は、先に郊外に建設した製作センター (神戸市西区) に移転していたものの、新聞製作の心臓部ともいえるコンピューターシステムは壊滅。余震で崩壊の危険があるビルは立ち入り禁止になり、新聞発行の危機にさらされた。

幸い、新聞発行は、緊急時の相互支援協定を結んでいた京都新聞社の全面的な協力で、当日夕刊 から4ページの新聞を製作し読者に届けることができ、1日も休まず新聞発行を継続、3週間余で朝刊28ページの紙面まで回復を遂げた。新聞会館での業務と新聞製作を断念した本社は、直ちに本社機能を製作センターに移し、コンピューターシステムの再構築に着手。同時に編集取材部門や論説委員室、販売・広告・事業などの営業部門や関連企業の拠点として、JR神戸駅前のハーバーランド内にあるダイヤニッセイビルの空きフロアーを契約し、6日後には都心に第2本社を開設、震災復興へ本格的な業務を再開した。



編集局調査部
倒れたマイクロフィルム収納キャビネット(左側の3基)。
引き出しがすべて飛び出し、フィルムケースが
折り重なっているものも。

2. ビル取り壊し決定、保存資料ピンチ


さて、使用不能となった新聞会館は、早々と取り壊しに決まった。神戸新聞社はすでに、ハーバーランドに新本社ビルを建設中で、来年春には新社屋に移転する予定になっていた。移転に備え、資料や機器類など整理・分類作業を進めていた矢先の被災だった。幸い、出火を免れ、資料類はビル内に残されたが、余震によるビル崩壊の危険とあらゆる備品、書棚類が倒れ、書類などが散乱した状況の中で、資料や書類の持ち出しは当初、厳しく限定された。

新聞社にとって貴重な財産である記事資料や写真、地域関係の図書・資料などは、会館4階の編集局調査部の資料室にあった。新聞原紙の製本や図書、切り抜き資料などを納めた書架という書架はすべて倒れ、膨大な資料類や図書は山のように床に散乱。写真や切り抜きを収納したファイリングキャビネットは床を大きく移動したり、引出しが飛び出し前屈した状態で倒れかかったものも少なくない。資料室内に初めて飛び込んだスタッフは、手のつけようのない光景を前に一瞬、茫然自失の状態だった。 

これらを、どこまで回収・保存できるのか―。当初は絶望的な思いにとらわれたというのが、正直なところだ。問題は、時間をかけて整理できればともかく、余震によるビル崩壊の危険が続く中で、ビル内への立ち入りが厳しく制限されたからだ。その後、立ち入り条件が一部緩和されたことなどから、結果的には、2週間余にわたる社員の“決死的潜入”によって重要資料などの大半は搬出できた。しかし、当初はリフト車で4階の窓からビル内に進入、手荷物風にまとめた重要資料だけを持ち出すのが精一杯だった。調査部に保管されていた膨大な資料類の大半が一時絶望視されたのは、そんな経緯の中で生まれた。



調査部資料室の惨状
書架はすべて倒壊。山のように散乱した資料・図書類。
スチールキャビネットは数メートル横すべりしたり、倒れたもの。

3. 災害対策完了直後のマイクロフィルム


そんな中で、数年間にわたって本紙のマイクロフィルム整備計画を完了したばかりの小生らは、社屋の受けた被害の大きさに驚く一方で、心なしか安堵の思いが胸中に去来した。「万一、フィルムが回収不能になったり、傷みが激しくても、災害によるリスク分散に取り組んだ結果、すぐにでも複製可能になっていた」 からである。

それでも、半壊状態のビルに入り、調査部のフィルムキャビネットの状態を確認するまでは、かなりのフィルムの損傷や回収不能分があることを覚悟していた。最悪の場合でも、本社にしかマスターフィルムのない地方版の一部のネガフィルムさえ無事だったら、あとは改めて複製するしかないとあきらめていた。 

だが、結果的には、製作したばかりのネガフィルムはじめ、ネガ、ポジ合わせて約2,300巻の大半は、収納キャビネットの中から無事回収された。建物の完全倒壊を免れたことや火災を避けられたことなど幸運が重なった結果で、大災害の中でリスクが回避されたのは偶然にすぎなかったといえる。



4. 立ち遅れのマイクロ化、一挙に整備へ


神戸新聞は明治31年2月11日の創刊だが、本社が本紙のマイクロフィルム化に取り組んだのは、昭和28年9月から。日本新聞協会加盟各社が参加する新聞マイクロ懇談会と国立国会図書館が契約により、日刊新聞各社のマイクロフィルム化を始めてからである。 

同懇談会には本社はじめ、協会加盟の40数社が参加。加盟社がマイクロ撮影用の原紙を毎月協会に送り、協会で紙面を逐一点検のうえ国会図書館に渡し、同図書館がマイクロ化する。マスターフィルム (ネガ) は同図書館が各社から寄託されて永久保管し、各社と協会にはポジフィルムが各一本渡される仕組みである。

昭和28年8月以前のマイクロフィルムは、本社独自で製作したものはなかった。神戸新聞社は大正7年の米騒動で本社屋が焼き討ちに会い焼失したのをはじめ、火災や空襲などにより過去3回にわたって社屋を焼失。そのたびに保存新聞原紙や写真、記事資料などを一切失った。このため、戦前の新聞資料は一切持ち合わせていないことから、戦前の分については戦災を免れた神戸市立中央図書館と東京大学明治新聞雑誌文庫が戦後独自にマイクロフィルム化していたものを複製し、ポジフィルムを保有していた。 
地方版の紙面については、昭和22年分から同53年までの分を本社の協力のもとに兵庫県立図書館がマイクロフィルム化していたのを複製 (ポジ)で保有、53年7月分以降は本社で独自にマイクロ化し、ネガとポジを保有していた。



調査部
余震に脅えながら、資料類の持ち出し
作業を続けるスタッフ。

5. マイクロフィルム整備計画の推進

このような新聞マイクロフィルム整備の立ち遅れは長年放置され、本紙の縮刷版も出版されていない中で、フィルムの出版事業にも取り組まれていなかった。こうした状況を改善しようと、折から取り組みを始めたデータベース構築作業と並行して平成3年、調査部で「マイクロフィルム整備計画」 を策定した。

計画の目的は第1に、日刊新聞発行本社の責任として、発行した新聞の永久保存と社内及び社外一般の利用に供するため、新聞マイクロフィルムのマスターフィルムを自社で複製保有し、図書館はじめユーザーに対し速やかに提供できる体制をつくることである。第2は、マスターフィルムの「複数分散保有」 を進めることにより、災害などに対するリスク分散を図ることだった。当時、まさかこんなに早く、地震で本社が壊滅的被害を受けるとは夢想だにしなかったが、本社がマスターフィルムを保有していない不安は常につきまとっていた。

また、長年使ってきたポジフィルムの劣化、損傷が進み、手持ちフィルムの更新や、フィルム活用のうえでネガフィルムが欲しかった事情などが重なり、平成3年末に社内での予算化と1,000万円を超す事業へのゴーサインを得、ネガフィルム(DDフィルムによるサブ・マスターフィルム化) の製作作業を開始した。
作業は、国会図書館のマイクロフィルム関係指定業者でもある日本マイクロ写真株式会社の全面協力で行った。マスターフィルムを保有・保管している国会図書館や神戸市立図書館、東大法学部明治新聞雑誌文庫、兵庫県立図書館などからマスターフィルムを借り出し、順次DDフィルムを複製していく作業になった。

サブ・マスターフィルムの製作には、いくつかの困難も伴った。 
比較的近年の製作フィルムはほとんど問題はなかったが、戦後間もないころに製作したものや、戦前の紙面をフィルム化したものには、もともと原紙の保存状態が悪かったうえに当時のフィルム製作技術や材料の品質などから、マスターフィルム自体が鮮明度を欠き、出版に耐えるかどうかが危ぶまれるものも少なくなかった。しかし、原紙そのものが存在しないうえ、仮に原紙が入手できても、原紙の劣化状態を考慮すると、再撮影しても鮮明度が向上する可能性は薄かった。  また、マスターフィルムの製作条件が多岐にわたり、1巻のフィルムの中でも階調などにばらつきが多かったことなどから、フィルムの複製にもネガ状態の確認に細心の注意が要求されるなど、複製作業の担当者の負担も当初予想より大きくなった。実際には平成4年6月にフィルムが納品されてから、かなりの本数を再作製するなど手直しが生じた。




余震による崩落の危険の中、
新聞会館3階の窓から
資料持ち出しのため進入する神戸新聞社員

6. リスク分散管理とスムーズな出版業務


今回の本紙マイクロフィルム整備計画の完了によって、従来は1セットで、しかも当初の製作者などによってばらばらに保管されていた本紙のマスターフィルムが、DDフィルムというサブ・マスターの形とはいえ、3セットに増えた。しかも本社がセットで神戸で保管するとともに、日本マイクロ写真株式会社が埼玉工場の保管庫でも1,000フィートロールで保管。国会図書館や東京大学、神戸市立図書館などでも区分保管され、一挙に危険分散がはかられることになった。とくに、震災の危険が高まっている関東と関西でトリプル保管されることになったメリットは、大きい。

マイクロフィルムだけでなく、新聞原紙についても本社は平成3年から 「分散・ダブル保管」体制をとっている。それまでは三宮本社で一括保管していたのを、スペースの問題もあって西区の製作センター内に調査部の書庫を設け、戦後の原紙製本を一括永久保管した。同時に、社内の日常活用にも必要なため、毎月の製本を2冊に増やし、三宮の本社調査部にも置いてダブル保管体制をとった。今回の震災で調査部の書架は倒壊し、回収はできたものの、かなりの製本が破損した。出火していれば、貴重な原紙を戦後50年目にして4度、失うことになっていたかもしれない。


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築後40年。地震で建物構造部分が破壊され、
取り壊される神戸新聞会館。窓ガラスの大半は破損。

7. 被災フィルムの損傷と保管設備の改善


半壊したビルから回収したフィルムは、まだ、1本1本点検を終えていないので、揺れやほこりの影響は確認できていない。大半は収納キャビネットの中から回収されたので、外見上の損傷はほとんど見られないが、一部には紙箱の破損やリールの損傷、フィルムのねじれなども見られる。回収が遅れて取り扱いが良くなかったものは、ほこりが付着したフィルムもかなりあるようだ。  

DDネガ作製後、調査部のマイクロフィルム収納キャビネットは専用キャビネット (10段引出し、1台で720巻収納)を導入したが、地震で引出しが飛び出し、3台とも前に倒れ、飛び出した引出しで前傾状態になっていた。倒れたショックからか、引出し内の仕切り板のほとんどがはずれたり、ずれ込んで、一部のフィルムケースが歪んだ状態になっていた。

物理的損傷の点からいえば、各リールがプラスチックケースに入っていた地方版フィルムの方が安全だったようだ。化学的には、紙箱とくに中性紙の方がフィルムの保存によいと推進してきたが、紙箱でも耐えられる収納キャビネットの改善が必要になりそうだ。とくに、収納キャビネット引出 しのストッパーの弱さは、使用開始直後から気になっていたもので、メーカーにさっそく改善を申 し入れた。



震災直後の神戸新聞本社4階の営業フロアー